LOGIN愛梨沙は手袋の内側へ爪を食い込ませました。(知ってたんだ私が拓哉さんを見てること同じ道を歩いた足も同じ店で吸った息も拓哉さんが振り返る前に柱の陰へ隠れた身体も全部妻の目の中に入ってた見つかってたんだ恥ずかしいうれしい拓哉さんの奥さんに私の愛を見られてたこの人は私が拓哉さんを欲しがる姿を何度も写真で見たんだもっと見て白い布を剥がして指の先から胸の奥まで開いてあなたより深いところに拓哉さんがいるって妻の指で確かめて)「知っていたのに、どうして今まで何も言わなかったんですか?」「少なくとも、報告の中であなたが夫へ話しかける場面はありませんでした」瑠璃子の視線が、愛梨沙の白い手袋へ下りました。「夫を見ているだけなのか、近づく機会を待っているのか、それとも傷つけるつもりなのか、判断できなかったんです」「傷つけると思ったなら、警察へ話せばよかったでしょう?」「夫の近くに同じ女性が何度かいたというだけでは、何も起きていませんから」「拓哉さんには?」「話していません」愛梨沙の唇が、わずかに開きました。「どうしてですか?」「夫があなたを知らないのなら、わざわざ教える必要はありません。知っているのに隠しているのなら、尋ねても正直には答えないでしょう」瑠璃子は結婚指輪へ親指を添えました。「どちらにしても、私から名前を教える理由はありませんでした」「今夜までは?」「ええ。今夜までは」愛梨沙は瑠璃子の目を見ました。怒りも怯えもありません。けれど、何も感じていない目ではありませんでした。愛梨沙がどこまで知っているのか。どこまで夫を追っているのか。その奥に何が潜んでいるのか。瑠璃子もまた、愛梨沙を測っています。「私がここにいることも、最初から分かっていたんですか?」「店に入った時は気づきませんでした。窓へ同じ姿が何度か映ったので、顔を確認しました」「写真の私を覚えていたんですね」「何度も見ましたから」その言葉が、愛梨沙の胸の内側を撫でました。(何度も私を見たんだ拓哉さんを見ている私を妻が見ていた拓哉さんの背中を挟んで私たちずっと向かい合ってたんだねあなたは夫の先から私は夫の後ろから同じ人を見てた近いね思ってたよりずっと近い)「私が麻里亜さんを追ってきたとも思っているんで
「聖さんには、明日会うことだけでも伝えてください」「この画面を送ったら、絶対に来ます」「画面を送る必要はありません。場所が分かったら知らせると、それだけ伝えればいいでしょう」「それでも怒ります」「怒られることと、知られないまま会うことのどちらが怖いですか?」麻里亜は画面を見つめました。やがて連絡先を開き、短い文章を打ち込みます。「明日会うことになった。場所が分かったら送るって書きました」「もう送ったんですか?」「今、送りました」麻里亜はスマホを伏せました。「全部、奥さんに言わされた気がする」「送らないこともできました」「そういうところが、ずるいんです」「そうかもしれませんね」麻里亜はアイスコーヒーを飲み干しました。「奥さんには、この画面も送った方がいいですか?」「送ってもらえるなら、保存します」「拓哉さんには見せないでください」「見せません」「聖の名前も、奥さんからは出さないで」「私から夫に、聖さんの名前は出しません」麻里亜は少し迷ったあと、瑠璃子へ画像を送りました。瑠璃子のスマホが一度だけ震えました。画面を確認すると、すぐに伏せます。「明日、場所が分かったら連絡してください」「奥さんも来るつもりですか?」「行きません。私が近くにいれば、夫は気づくかもしれません」「じゃあ、何をするんですか?」「あなたからの連絡を待ちます」麻里亜は椅子から立ち上がりました。「もう帰ります」「今日は来てくれて、ありがとうございました」「お礼を言われるようなことじゃありません」「それでも、来てもらえなければ話せませんでした」麻里亜は鞄を肩へかけました。「奥さんのこと、まだ信じてませんから」「分かっています」「拓哉さんに奥さんと別れてほしいって気持ちも、変わってません」「それも分かっています」「明日会ったら、拓哉さんが私を選ぶかもしれない」瑠璃子は麻里亜を見ました。「その時は、言葉ではなく、夫が何をするのか見てください」麻里亜は返事をせず、店の出口へ向かいました。ガラス扉が開き、その姿が夜の暗がりへ消えました。愛梨沙はメニューを閉じませんでした。瑠璃子が席を立つまで、動くつもりはありません。けれど瑠璃子は帰りませんでした。紅茶のカップへ目を向けたまま、静かに座っています。1分が過ぎました。
愛梨沙は背中合わせのボックス席で、メニューへ顔を寄せていました。大きな窓には、瑠璃子の横顔が淡く映っています。紅茶へ目を戻す直前、瑠璃子の視線が一度だけ窓へ向かいました。愛梨沙は、その動きに気づきません。(上手だね拓哉さんの奥さん怒鳴りもしないのに麻里亜さんの言葉へ指を入れて隠してるところを探っていくその指で拓哉さんにも触れたの?眠る前の唇もシャツの下の汗も私が知らない拓哉さんを何度も撫でた?私にも触れてみて拓哉さんが入ってる場所を探して喉の奥まで開いても出てくるのは拓哉さんの名前だけあなたの夫で満たされた私を妻の指で確かめて)「返信しないと、また連絡が来るかもしれない」麻里亜が呟きました。「返したいなら、返してください」「会うって書いてもいいと思います?」「それは、あなたが決めることです」「奥さんは止めないんですね」「止めても、あなたは行くでしょう」麻里亜は否定しませんでした。「黙って行かれるより、誰かが行き先を知っている方がいいと思っています」「場所を送るだけで、本当にいいんですか?」「今のあなたにできることから始めてください」「私が何をするかまで分かるんですか?」「分かりません。ただ、一度にいくつも勧めても、今のあなたは聞かないでしょう」麻里亜は瑠璃子を見ました。「奥さんは、私が無事に帰るのを待つんですか?」「あなたに何かあれば、夫は自分に都合のいい説明をするでしょう」「心配してるとは言わないんですね」「私が優しく言えば、信じますか?」麻里亜は少し考えました。「たぶん、信じません」「なら、取り繕う必要はありません」麻里亜はスマホへ目を戻しました。文章を打っては消し、また指を動かします。「何て返せばいいと思います?」「私が考えれば、夫に気づかれるかもしれません」「奥さんの言い方って、そんなに分かるものなんですか?」「長く一緒にいますから」「だったら、拓哉さんも奥さんの言い方が分かるってことですよね」「そうかもしれません」「何を書いても、奥さんが横にいるって気づかれそうで怖い」「短く返せば、誰が考えた文章かまでは分からないでしょう」「会うって、それだけ?」「余計なことを書かなければ、夫の方から必要なことを送ってくると思います」麻里亜は画面へ指を滑らせまし
「どうして、消しちゃいけないんですか?」麻里亜はスマホを伏せず、瑠璃子を見ました。「夫が、あなたを誰にも知らせず呼び出そうとした記録だからです」「記録って……拓哉さんが何かするって決めつけてるんですか?」「決めつけてはいません。何も起きなかったとしても、消す理由はないでしょう」麻里亜の視線が画面へ下がりました。「誰にも言うなって、どういう意味だと思います?」「あなたは、どう受け取ったんですか?」「また聞き返すんですね。奥さんなら、拓哉さんが何を考えてるか分かるでしょう」「分からないから、あなたと話しています。夫は相手によって、言葉の意味まで変えますから」麻里亜はスマホから目を上げました。「写真を消せって言うつもりなのかな」「その可能性はあると思います」「本当に謝りたいだけかもしれないですよね。さっきは悪かったって書いてあるし」「謝るだけなら、誰にも知らせずに来てほしいとは書かないでしょう」麻里亜の指が止まりました。「会わない方がいいって言いたいんですか?」「一人で会うことには反対です」「誰かを連れていったら、拓哉さんは帰ります」「それなら、帰ってもらえばいいのではありませんか?」麻里亜の眉が寄りました。「奥さんには簡単に言えるんでしょうね。私は今日、もう終わりだって言われたんです。明日もう一度話せるなら、会いたいと思います。それがそんなにおかしいですか?」「おかしいとは言っていません」「だったら、止めないでください」「止めているのではありません」瑠璃子は麻里亜の右手へ目を向けました。「あなたの手首を押さえた人が、次は誰にも知らせずに来てほしいと言っています。その二つを別々に考えないでください」麻里亜は右手を袖の奥へ隠しました。「拓哉さんは、私を傷つけようとしたわけじゃありません」「傷つけるつもりがなかったとしても、痛いと言われた時に離さなかったんですよね?」「写真を奥さんに見せられたら全部壊れると思って、怖くなっただけかもしれない」「夫が守ろうとしたのは、あなたですか? それとも自分ですか?」麻里亜は唇を結びました。瑠璃子は返事を急かしませんでした。紅茶をひと口飲み、カップを受け皿へ戻します。「奥さんは、拓哉さんを悪い人にしたいんですか?」「私が何を言っても、夫がしたことは変わりません」「そ
「夫が、あなたのスマートフォンを取ろうとしたんですか」 麻里亜は右手首を袖の中から出しました。 赤い跡は薄くなっています。 「ここを押さえられました。痛いって言っても、すぐには離してくれなかった」 瑠璃子の視線が、手首へ向きました。 「どうして、そこまでしたんですか」 「写真を消させたかったんだと思います。私が奥さんに見せるって言ったから」 「夫があなたと会っていたことも、今のことも、私は聞いていません」 「話すわけないですよね。自分が困ることばかりだから」 「夫は昔から、自分が責められる部分を抜いて説明します」 瑠璃子の返事には、怒りよりも慣れが混じっていました。 麻里亜は手首を袖の中へ戻します。 「聖が途中から見ていました。必要なら、見たことは話すって言っています」 「証拠も、聖さんが持っているんですか」 麻里亜はすぐに答えません。 「そこまでは話せません。奥さんを信じるって決めたわけじゃないので」 「分かりました。今ここで無理に聞き出せば、あなたは私との話を終わらせるでしょうから、これ以上は聞きません」 「本当に聞かないんですか。さっきから証拠を見せてほしいって言ってたのに」 「見たい気持ちは変わりません。ただ、あなたが警戒したままでは何も進まないと思っています」 麻里亜はアイスコーヒーを初めて飲みました。 氷がグラスの中で鳴ります。 「私は、これからどうすればいいんですか」 「それを私に決めてほしいんですか」 「奥さんは数か月も見ていたんでしょう。私より拓哉さんの嘘を知っているなら、何か分かると思ったんです」 「見ていても、あなたの気持ちまで決めることはできません。ただ、あなたが知らなかった夫の言葉は伝えられます」 「味方みたいに話さないでください。私は奥さんの夫と寝ていた女ですよ」 「味方になるとは言っていません」 「だったら、私たちは何なんですか」 「同じ人から、違う嘘を聞かされた者同士です」 「私は奥さんと一緒にされたくありません」 「そう思うのは自由です。それでも、夫が隠したいものを持っているという点では、今の私たちは同じ方向を見ています」 麻里亜は瑠璃子を睨んでいました。 「だから写真を渡してほしいんですか」 「今すぐ渡してほしいとは言いません」 「では、私に何をさせたいんです?
「私も長い間、夫が私にだけ本当の顔を見せていると思っていました」 麻里亜は何も言えませんでした。 食器の触れ合う音と、遠くの笑い声が二人の間へ流れ込みます。 愛梨沙は、その沈黙まで聞いていました。 拓哉は妻へ帰る言葉を与え 麻里亜へ逃げる言葉を与えていた。 違う言葉を使いながら、二人とも同じ場所へ縛っている。 (拓哉さん かわいい 二人の耳へ 違う言葉を入れたんだね 妻には帰る場所を 麻里亜さんには逃げる場所を 私には何をくれるの? 嘘でいい 私だけって言って その舌が何人の名前を覚えていても 私の口の中で動くなら ひとつも吐かないから) 「証拠を見せてもらえませんか?」 瑠璃子がもう一度頼みました。 麻里亜は首を横へ動かします。 「今の話だけで、奥さんを信じることはできません。拓哉さんと別れさせるために、私の写真を奪いたいだけかもしれないですから」 「何を、何を確認できれば見せてもらえますか?」 「奥さんが、拓哉さんをどうしたいのか知りたいです。離婚したいのか、取り戻したいのか、それとも私を潰したいのか」 「夫の嘘をすべて確かめてから、自分で決めたいと思っています」 「決めたあと、私がどうなるかは関係ないってことですか?」 「あなたは、夫とどうなりたいんですか?」 質問を返され、麻里亜の声が止まりました。 瑠璃子は急かしません。 「奥さんと別れて、私を選んでほしいです」 しばらくして、麻里亜が答えました。 「今日、夫から何と言われましたか?」 「どうして、今日会ったことまで知ってるんですか?」 「あなたと別れたあと、夫から連絡が来たからです」 麻里亜の顔が上がります。 愛梨沙の呼吸も浅くなりました。 「拓哉さんは、何て送ってきたんです?」 瑠璃子は鞄からスマホを出しました。 画面を開き、麻里亜へ向けます。 愛梨沙から内容は見えません。 麻里亜の表情だけが変わりました。 目が大きく開き 唇から色が引いていきます。 「これ、本当に今日送られてきたんですか」 「時刻も確認してください。あなたと別れた直後です」 「どうして、こんなことが言えるの」 瑠璃子はスマホを自分の方へ戻しました。